もう20年以上も前の事。私は新入社員で、バス通勤をしていて、その日は大慌てで家を出て丁度バス停に着いたところのバスに飛び乗った。

揺られて数十分、降りようとしたら財布が...ない。当時のバス代は忘れもしない160円だった。

たかが鞄のどこかに、あるいはスーツのポケットにどこかに入っていないかと探したけれど、無い。どこにもない。『無賃乗車』という言葉が頭をよぎった。

真面目に生きてきたつもりなのにどうしよう。『すいません、お財布を忘れてしまって』とか細い声で運転手さんに告げた。

バス会社に連れていかれるかもと若い私は本気で思っていた。『あ、そう、気をつけてね。毎朝乗ってるでしょ。明日でいいよ。』運転手さんはさらっと答え、『いってらっしゃい』と笑ってくれた。

ごめんなさい、行ってきます。明日必ず払います。とまくしたてるように言って私はバスを降りた。

一日中なんだか不安なような拍子抜けなような気分で勤務を終えて家に帰り翌日同じバスに乗ると運転手さんが違った。今思えば払わなくてもなんでもなかったのだろう。

しかし私は律儀に今日の分と昨日の分合わせて320円を払い『昨日忘れて貸していただいたんです。助かりました。』と伝えた。

小さな借金だが私にとっては唯一、人から借りた経験である。